VOICES
––– 改めまして、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか。
はい。佐藤朋久と申します。芸術資源研究センターの教員です。
––– どんなことをするところですか?
芸資研って呼んでるんですけど。芸術の、資源を、研究するセンターです(笑)文字通り。
––– そのまま(笑)
芸術資源っていうのは、これと決まっているものではなく、「その視点で考えると面白いんじゃないか」というものです。資源って、何かの源になるものという意味ですよね。ここでは、芸術を生む元になるものを広く考えていこう、というコンセプトでやっています。芸大で勉強するときに、過去の作品を見たりとか、過去の人が何考えて作ってたのか知ることは資源と言えますよね。加えて一見芸術と無関係そうだけど、その人の趣味とか、生きた時代がインスピレーションとして源になったりもします。
––– インスピレーションの元になるものならなんでも。
なんでも!例えばこの学食の、この(食堂前、テラス席)空間。今コロナで食堂では集まれないけど、この学食とここのどっちに座るか問題とか、あると思うんだよね。こっちにいる人って、ちょっとこう、非・主流系というか(笑)
––– フッフッフッフ(笑)
でも、気安くいられるような場所がある。こっちの方が人通り多いから、「またいるなこの人」っていう出会いがあったりする。そんな、場所とか人と人が会うための仕組みも、芸術資源的には大事なテーマですね。
––– 先生は今までどんな研究をされていたんですか?
僕ですか?その前にちょっとこの像を見て欲しいんですけど。
––– 像ですか!はい。
この台が重要だって昨日聞きまして。この( )さんは、京芸の前身の京都画学校の設立に関わった人です。元は金属製らしいんですが、戦時中に金属回収されちゃって。像は飛行機とか弾丸になっちゃったんですよね。だから像自体は後から作られたんです。でも台は当時のまま。
––– 確かに材質がちょっと違いますね。
そう、上の方がコンクリが荒いよね。
もう一つ紹介したいものがありまして。それを見に行きつつ、僕のしてきた研究についてお話しします。僕はもともと文化人類学をやってました。一番最初は、90年代のエイズに関するポスターなどの芸術表現について。僕は京都大学出身ですが、大学の垣根を越えて活動してました。今京芸で先生やってる人とも何人か関わりながら。それにまつわるアーティストたちの活動も、研究対象ではありました。…うわすごいですね!
––– すごいですね!!
作ってるなあ…
––– その後、東日本大震災の時に、震災の記録を作ってる人たちの活動を見て。ある大きい出来事の記録をみんなで作る「コミュニティアーカイブ」という、記録とその継承の現場に出会いました。被災した後の復興のプロセスが多くの人の生活を変えているから、その時どんなことが起きていたのかを記録していく。それが芸資研のやってることとも近いとなり、ここで働き始めることになるわけです。
センターとしての活動と別で、崇仁小学校を記録する活動もしています。もう小学校の建物は無くなっちゃったので、今はその記録を残っと資料と共に整理していくプロジェクトを進めています。今はそっちは一旦おやすみして、沓掛校舎のアーカイブをしてますね。資料を整理したり、色んな人に話を聞いたりを通して、この大学の芸術資源の研究を…あれ、なくなってるなあ。
–––– えっ
そういうことを今はやってるんですが…あれ?
––– なんかあったんですか?
(探す先生)
あ、なくなってますね…今探してたのは、沓掛キャンパスに来る前、今熊野キャンパス時代に池にあった彫刻です。あれ?
(彫刻棟に入る)
あ、あったあった!ありました。こっちに移したんですね
(小山田先生「そうそう、わかりやすく」)
池の真ん中にあった、象徴的な像なんですが、この作者がわからないという問題があって。
––– わからない!?
学校のメインの建物の池の真ん中にあった、大学の先生の誰かが作ったであろう彫刻の作者がわからないって、すごくないですか。
––– すごい、なんか良いですね。
松井先生が最近ずっとそれを調べてて。おそらく結論が出つつあるんですが。
––– お。
結論は「わからない」って。何人かに絞れるけど、1人の人ってわけじゃないみたいです。
––– 作風に特徴ある気がしますけど…絞れないんですね。
ちょうど戦後しばらくして、美術界が変わっていった時の空気が、このひとつの作品から読み取れるんじゃないかと松井先生が深掘りしていて。
––– なるほど。
戦前の学校は日本の美術中心だったんですけど。仏像と、戦後入ってきた西洋の現代彫刻が交錯したような感じ。座ってるこの姿勢、足の立て方とかが仏像っぽいらしいです。でも手のポージングとかは現代彫刻だよね。
––– 確かに。
移転を機に「これなんだっけ?」みたいなものがいろんな研究室からいっぱい出てきて。それも記録として残していきたい。50年代の京芸の先生たちはこんなこと考えてたのか~と。多分そこには、戦争に負けて、これからの日本の美術どうする?という転換期の人たちの思いがあるんじゃないかな。東洋と西洋のどっちかじゃない新しい道を。
––– 好きな場所とかありますか?
好きな場所…
(鶏が鳴く)
結構全体的に好きですよ、この大学。
––– 好きですか!どんなところが?
まず全体的に斜面!
––– 斜面!
斜面がいいですね。
––– なんで斜面がいいんですか?
例えばここ見ても、何一つ平じゃないでしょう。
––– フフフフフ(笑)
フフフフフ(笑)このT字路、どこも平らじゃない。こういうとこがいいです。要するにここ山で、そこをちょっと削ってる。そういうところがいいですね。
––– 元の地形が残ってる感じが。
あとはやっぱり、キャンパスの中に一歩入ってしまうと大きい木がいっぱい生えててラピュタみたいで。そこもいいですよね。
––– 確かに、多いですよね大きい木。
ラピュタ的な、浮いてる感じが。
––– 外の音も遮断されますしね。
そして山も近い。山が近いってのはいいですよね。僕はもともと東京育ちですが、京都に来て、山がすぐそばにあるところで暮らすのはいいなあと思うようになりました。山って動かないじゃないですか。動かないでっかいものがあるのは、変わらないものがずっとあるというところで安心感につながってて。
––– そう思うと、すごくいい場所ですね。
いい場所です。京都市立大なのに、市バスは来ませんけどね(笑)
––– 京芸の学生ってどんな学生だと思いますか?
みんな制作において、考えつつ、ある段階から実際にものを作ったり音を出したりしますよね。そういった、考えてるところから手が動くまでの時間が、一般的な学生より短めだと思います。それと、音楽の人だと、音出した瞬間にその場の空気を変えられる。建物作った瞬間に空間が変えられるとか。そういったフィジカルな力を持ってると思います。
––– 実際にその空間を変えられる。
うん。これを言葉でやろうとすると難しいと思うんですよ。その点、何人かでその場の全てを変えられるような力を出せるということは、芸大生の力だと思いますね。
––– 京芸の学びの中で、どういう立場でありたいですか?
芸術大学において、人文社会系の教員、特に社会科学やってる人ってそんなにいない。数少ない社会科学系の教員というふうに思っています。その立場で、もっと社会的な事柄に対するアプローチの仕方を伝えられたらいいなと思います。
文化人類学と芸術の関係は今、すごいラブラブなんですよ。
––– ラブラブなんですか!
そう、もうすごいラブラブ。
––– へえ~!
超ラブラブです。なぜかというと、何かものを作る時、これまでは西洋の芸術、じゃなきゃ一気に日本だけ、といったざっくりとした見方しかなかった。でももっといろんなところで行われている芸術を考えようよ、という気運がずっとあって。そこで文化人類学という、いろんな人たちの文化芸術について研究する学問を参照して、気づけていなかった芸術の可能性を見ていこうとする。文化人類学と芸術大学はそういう意味でもっと密に、ラブラブにいったほうがいいと思うんですよね。今、芸術大学の中に人類学者がいるところってすごく少なくて。秋田県立美大に1人と、僕くらい。
––– レアですね。
もっと増えたらいいと思うんです。各大学に2、3人くらいいてもいいと思う。
––– 俗っぽいですけど、確かに芸大の学生で「民族っぽいものが好き」な人は多い気がします。
地球温暖化や文明社会の変化によって、1000年単位で考えなきゃっていうくらいの変化の時にあると思うんです。そこでは例えば、3000年前の人類ってどうやって過ごしてたのかとか、エネルギー控えめな暮らしはどんなでみたいな、広い視点で頭を柔軟に使えることが必要だと思う。他の社会のあり方を考える時に、普通はSFチックになりがちですが、人類学だと、うまくいった社会の具体例がある。そういう知識を、基本的な前提としてみんな持てればいいなと思います。日本文化人類学会に成り代わって文化人類学の良さを強調しておきました(笑)